日程 2014年7月25日(金)~7月28日(月)
コース 7/25(金):横瀬町郷土資料館~神庭洞窟~橋立岩陰~大滝歴史民俗資料館~妙音寺洞穴付近
7/26(土):北相木村考古博物館~栃原岩陰~龍岡城~鳥羽山洞穴付近~上田丸子郷土博物館~岩谷堂洞穴
7/27(日):高山村歴史民俗資料館~湯倉洞穴連絡路~須坂市博物館~石小屋洞穴~長野市博物館
7/28(月):樋沢遺跡~梨久保遺跡~立石公園~踊場遺跡付近~細久保遺跡~湊公園~岡谷市図書館~岡谷市美術考古博物館
参加者 野内、鯉渕、内田、川島、横山(以上敬称略)
今年のテーマのひとつは山間部の洞穴遺跡の湧水環境を含んだ立地と湯倉洞穴・栃原岩陰から出土した草創期の遺物の実見、もうひとつのテーマは諏訪湖に面した押型文土器の標式遺跡の樋沢遺跡・細久保遺跡、中期の標識遺跡である踊場遺跡、梨久保遺跡などの立地環境を比較検討することであった。
第1日目 7月25日(金)
一同、西武秩父駅で集合し昼食をとった後、横瀬町郷土資料館に向かう。さいたま市立博物館長小倉均さんよりご紹介いただいた、学芸員の深田芳行さんのレクチャーを受ける。そもそも見学に向くのは、冬であると指摘を受ける。尤も、と一同。しかし折角来たのだからと、比較的見学しやすい場所を挙げてもらい、この助言をもとに以後、見学することにした。
また、この後館内展示を案内していただいた。収蔵する考古資料のなかには、地元出身の深田さん自身が採集したものも含んでいるとのこと。夥しい多量の石鏃。赤玉など地元の石質とおぼしき様相が伺え、当地には寺坂遺跡という打斧製作遺跡が存在する。等々あるのだが、今回の趣旨からは外れるので、ひとまず措く。
神庭洞窟に向かう。眼前に渓谷を望む崖を張り付くように登り、中腹の洞穴に近づいていく。行き着くまでは蒸し暑かった。が、開口する奥部からとんでもない涼風が吹き出していた。一同やや喰い気味に開口部に吸い込まれていく。だが、この遺跡の調査区は、そこではない。丁度、我々が"順番待ち"していた場所、洞穴の前底部である。
開口部の西方に水の音が聞こえる。青青とし鬱蒼とした苔に湧水が滴り落ちている。こういった水に依って、その"川下"に集ったヒトの痕跡が調査によって検出された態を想起してしまった。
次に橋立岩陰のある石龍山橋立堂へ。調査区は寺域として囲っているため、ノッチ直下にあることは推定できる程度で、具体的な現況は確認できない。この崖下には鍾乳洞が開口しており、これもついでに見学した。ここで日が傾きつつあり、急ぎ気味に見学したのが、大滝歴史民俗資料館。自然部門と林業のコーナーを主力とした施設。特に考古資料はなし。
惜しくも下段遺跡を失念して、荒川(旧荒川村立)歴史民俗資料館は通過。これほどに渓谷ばかり接したところから、早期末を想起できず。
夕日のあたる妙音寺洞穴へ。この洞穴は、下段を更に遡る野島期のもの。高速道路のトンネルの口元が現地とのことであったが、確認できず。一路、佐久へ。
第2日目 7月26日(土)
佐久の宿より北相木村考古博物館へ。学芸員藤森英二さんのお世話になり、館内の主体である栃原岩陰の資料、特に骨角器を実見する。藤森さんからは栃原岩陰の調査独自のレベル別等級での出土状況のレクチャーを受けつつ見学した。(この等級の石器の出土状況の所見は、藤森英二2012「栃原岩陰遺跡の小型剥片石器特に黒曜石製石器について」『佐久考古通信』No.111)
北相木を離れる前に栃原岩陰を見学。龍岡城へ向かう。
“五稜郭”龍岡城は、地元の活用の意識が高く、将来、”城内”に所在する学校施設を城の外に移設することを計画中とのことである。
昼食した後は、上田市丸子の鳥羽山洞穴を探索。探索するも、藪と川で近づけず。
上田市立丸子郷土資料館に向かい、洞穴の出土資料を見学するも、曝葬という葬式で遺された古墳時代の遺物の展示に留まっており、縄文期のものは、洞穴の敷石遺構と同時期の集落遺跡である深町遺跡のものが主体であった。この地域は、特に渕之上遺跡の容器形土偶で知られるような、晩期から弥生初頭に移行する時期を語る際に引き合いに出される場所でもある。今回の我々の趣旨からすれば、集落と洞穴のリンクを考えるうえで注目すべき地域といえる。
同館の展示の情報から、この近くに位置する岩谷堂洞穴へ。先の橋立岩陰のように現況は寺域となっており、前庭部に卵塔が並んでいた。洞穴の背後中腹に寺堂があり、ここからは上田盆地を望むことができた。この日の宿は、須坂市。蒸し暑い夕。
第3日目 7月27日(日)
須坂から高山村歴史民俗資料館へ。生涯学習係の小林麻由美さんのお世話になり、湯倉洞穴の資料を実見。実は豊橋市美術博物館の企画展にて、縄文期の骨角器の大部分を貸し出しており、残ったものを見るに留まる。
この後、湯倉洞穴現地へ向かう。途中の道が崖崩れで塞がれているが向かう。勿論、現地へは行けなかったが、何気なくクリの木があるような緑深く、水が河川も流路も関係なく染み出し流れる白神山地のような光景を目の当たりにする。こういうのをナラ林文化当時のそれ、というのだろうか。
須坂市博物館に向かい、この近くで昼食をとった後、博物館を見学。石小屋洞穴の出土資料を見学する。
そして石小屋洞穴現地へ。先の湯倉に比べ、スンナリと現地につく。クマ除けの甲高い鐘をつき、その崖下に開く洞穴を見学。前提部は崖の傾斜が著しい。大岩の下を抉った観となっているのは、洞穴の上を道路を通すため、切り通したがため。神庭のように岩肌の襞の突出部に開口。
一路、川中島激戦の地八幡原、もとい長野市博物館へ。今回の趣旨たる洞穴の資料はない。近年に至るまで事例の増加する弥生中期~後期の自然堤防域の集落より出土する土器が目立つ。
縄文期の展示では、江戸坂貝塚出土の彩色のある浅鉢に類似する資料が見受けられた(檀田遺跡)のが印象的であった。同地は千曲川に形成された広大な盆地。見上げると開放される青空が広がっていた。
長野駅にて、帰路に就く横山会員と別れ、一同は岡谷の宿へ。
第4日目 7月28日(月)
岡谷市街から、樋沢遺跡へ。塩峰カントリークラブ入口に位置し、道路の切り通した部分が調査されたとみられる。道路を隔て反対側にその尾根に沿って河川が流れている。遺跡そのものはまた遺存しているのかもしれない。
梨久保遺跡へ移動。樋沢よりやや標高の下った諏訪湖が望める緩斜面半ばに遺跡が存在する。すぐ脇に常源寺沢という水豊かにどうめく沢がある。どうみても扇状地上の遺跡である。同様の立地の遺跡は、諏訪湖を隔てて更に向こうの井戸尻遺跡をはじめとした八ヶ岳麓の遺跡群が著名であるが、ここはやや手狭な差し迫ったかのような扇状地の印象がある。実はこの周辺の同質の地形の場所は、数年前の集中豪雨で鉄砲水が発生したようである。縄文人もそういったリスクを乗り越えて生活を展開したのだろうか。
梨久保から諏訪湖の対岸の諏訪市へ入る。立石公園に向かう峠道の入り口付近の岩陰遺跡の痕跡の周辺に車を止め見学。公園からは先刻の岡谷方面を仰ぎ見る。標高95m。更に公園から元の道を下りその中腹の踊場遺跡付近の宅地集中部へ。現地は特定できなかった。
その後、更に立石~踊場の尾根の更に背後の山腹へ。細久保遺跡に着く。沢が合流する囲みの緩斜面。笹が密集して土は見えない。が、湯倉のそれを思わせる水気豊かな立地。どことなく樋沢付近の風景と似ているが、どうもこちらの方が標高が高いように思う。
元の岡谷市街に戻り、諏訪湖畔の天竜川の注ぎ口、湊公園から、逆に立石~踊場の尾根を望む。すると、宅地化の凝集が顕著であることがわかる。長きにわたって人々が占地したポイントみたいなところだったのかもしれない。
岡谷市図書館に向かい移築した梨久保遺跡の敷石住居を見学。岡谷駅前に戻り昼食。その後岡谷市美術考古博物館へ。30分では見学もそこそことなり惜しいことをした。なれども海戸遺跡出土の人面把手付土器、また器を抱く土偶もはからずも見ることができた。これは再来を期して撤収。今回の見学旅行の帰路についた。
筆者としては、一度に見学するには、時間がなかった。横瀬町や岡谷市などは、今後期間を分けて再見するべき場所のような気がする。もっとも。各自個々で行くという選択もまたあるが。(文責 内田)
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